僕の一番古い記憶は東京とともにある
僕は日本で幼少期を送りました。
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え? ガンちゃん、小さいときに日本に住んでいたの?
日本に留学して大学生活を送っていたことは知っていたけれど、小さいときに日本に住んでいたことがあるんだ?
そんな風に思う方も多いかもしれませんが、はい、そうです。僕は、1才から小学校にあがる年まではタイではなく日本で、東京の町で過ごしました。
だから、僕の一番古い記憶は東京とともにあります。
東京が大雪のときに部屋の窓から雪で包まれた町を見た記憶、東京の坂道でころんだ記憶、部屋の中でこたつに入ってぬくぬくと過ごした記憶、ラーメンの出前が待ち遠しかった記憶。
いま思い返しても、懐かしさで胸がいっぱいになります。今回は、僕と日本との最初の接点についてお話しましょう。
1歳未満で初めて日本の地を踏んだ
僕の父はサイアムコマーシャルバンクに勤めていますが、一時期、サイアムセメントに在籍していたことがありました。
東京で暮らしていたのはそのとき。タケノコの缶詰やゴムの木を日本に輸出する業務を任せされ、父が東京事務所の所長職を命じられて、家族を連れて日本に赴任することが決まったからです。
なぜサイアムセメントがタケノコの缶詰やゴムの木を日本で販売しようと考えたのか(笑)、どう考えても不思議ではなりませんが、そのおかげで僕たち一家は日本で暮らすことができたともいえます。ちなみに、サイアムセメントは現在、その事業はやっていません。
当時の僕はまだ1才未満。生まれたのはタイですが、1歳になる前に来日し、その後、インターナショナル幼稚園に通い始めました。
日本では英語と日本語を話せていたのに…
人間、年齢を重ねると、昔の記憶は段々色あせていきます。
僕も例外ではありません。
それでも、日本での記憶はかなり鮮明に残っています。当時、僕たちが住んでいた渋谷の家にはタイからたびたびお客さんがやってきました。その都度、ディズニランドに行き、港の見える丘公園にも何度も足を運びました。母が大好きだった浅草にもよく観光に出かけたものです。本当に楽しい時間でした。
さて、そのころの僕の日本語能力はどれぐらいあったのか?
インターナショナル幼稚園に通っていたので、幼稚園では英語を使い、ふだんの暮らしでは日本語を使っていました。どちらかといえば、一番心もとなかったのがタイ語だったでしょうか。
しかし、子どもというのは順応性が高い生き物です。僕たち一家は、僕が小学校にあがる前にタイに戻りましたが、タイで暮らし始めるとすぐに僕はタイ語を問題なく使えるようになりました。
そのかわり、英語と日本語はさっぱりです。見事に忘れてしまいました。日本ではかなり話せていたはずなのですが、使わなくなると言葉はすぐに忘れてしまう。忘れるのは簡単です(笑)。
ほかの人にはない「特別」な経験
日本語は忘れてしまったものの、僕にとって「日本」はいつも特別な存在でした。
楽しかった幼少期を送った日本、両親と密な時代を過ごした日本。
周囲を見渡しても、日本で暮らしたというスペシャルな経験をしたことがあるタイ人はいませんでした。僕は妙に誇らしく、ほかの人とは違う「特別感」を味わっていました。
タイに戻ってからも、日本との接点が消えたわけではありません。
僕たち家族は、1年に2回は家族旅行で日本を訪れました。向かった先はまたしてもディズニランドや浅草。よくぞ飽きなかったものだと感心するほど、繰り返し訪問しました。浅草のことだったら日本人より僕の母の方が詳しいかもしれません。
日本で暮らした経験と、度重なる家族での日本旅行。僕にとって、日本はいつも家族の思い出と重なっています。
そうして、年月がたち、僕が中学生になったある日。夏休みの期間、単身で一ヶ月ほど日本に暮らしてみないか。両親にそう言われて、僕は迷う間もなく頷きました。
また日本に行けるんだ。しかも、今度は自分ひとりで。わくわくするような時間が待っていました。