日タイ両国の皇室と王室をつなぎ、日本語を学ぶ若者の未来を支える言葉の母。(プッサディーさん)「私と日本」vol.10 - mediator

Blog 日タイ両国の皇室と王室をつなぎ、日本語を学ぶ若者の未来を支える言葉の母。(プッサディーさん)「私と日本」vol.10

2016年01月21日 (木)

私と日本
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道はここから始まった。
通訳・翻訳の大家が語る「日本語習得の大原則」
プッサディー・ナワウィチットさん

日本語通訳の大家にして、日本語翻訳の超実力者であり、「窓際のトットちゃん」のタイ語翻訳を手掛け、ロングセラーとして送り出した人物。タイ王室の日本語通訳兼家庭教師として、日タイ両国の皇室と王室交流に貢献してきたプッサディー・ナワウィチットさんは、日本語を勉強するタイ人にとっては「神様」といっても過言ではない。

語学に対する旺盛な好奇心

2014年には、その功績をたたえられて、日本政府から「旭日小綬章」を授与されている。そんな華々しいキャリアから、正直なところ、もっと強面の人物を想像していたが、こちらの先入観は見事なまでに覆された。柔らかな笑顔と人を包み込むような優しい物腰の持ち主だったからだ。

「ソーソートー(泰日経済技術振興協会)の校長を3年つとめた後、55才で定年してからは4年間、ホアヒンの高校で日本語の先生をやっていました。ボランティアでね。それも60才で定年となり、いまはOJSAT(タイ王国元日本留学生協会)の副会長として活動しています」

柔和なトーンながら、矢継ぎ早にこう繰り出すプッサディーさん。ちょっとした会話からも、日本語の語彙がとんでもなく豊富であることがよくわかる。そんな彼女に、日本語学習の歴史を聞いた。

「父が日系の三井物産に勤務していたこともあって、日本語を勉強したいという気持ちは自然に持っていました。中学3年の時に日曜学校の友達の義理の叔父さんで、タイで起業された日本の方の小学生のお嬢さんに、英語と数学の家庭教師をしていたんですね。その「縁」でその後、日本から卒業旅行に来たその方の息子さんをアユタヤに案内することになりました。初めて日本の人の英語を耳にしたのはそのときです。タイ語なまりの英語は語尾がなくなるけれど、日本語なまりの英語は母音がべったりとついてしまうでしょう。母国語の影響って面白いなあと思いました。後に、カタカナの勉強をするようになって、日本語なまりの英語がなぜああなのかがよくわかった。カタカナ英語なんですよね(笑)」

語学の話をするときのプッサディーさんの表情は明るく、実に楽しそうだ。耳が良く、言葉に対する感度が高く、言語への旺盛な好奇心を備えたプッサディーさんにとって、通訳と翻訳の仕事はまさに天職といっていい。

病気には負けない

プッサディーさんは、高校在学中に文部省(当時)の奨学生試験を受験し、見事合格。晴れて日本への留学が確定したが、試験自体は英語で行われたため、当時の日本語力はゼロ。1968年に日本に行ってから、『あいうえお』から勉強をスタートしている。

それだけに授業の中身を理解するのも一苦労。最初の1年間は東京外国語大学で学び、その後、お茶の水女子大学の児童学科で言語障害治療学を専攻したが、講義の内容はちんぷんかんぷんだったという。

「先生の講義を聞いても、語尾の『~ます』とか『~です』しかわからない。前期の一般教養でとった化学の授業も大変でした。『エステル』や『リン酸』と言われても、少しも理解できない。もともと理科系じゃないから余計につらかったですね」

「漢字の読み書きも大変でした。偏とつくりが逆になったりしましたね(笑)。高校ではドイツ語を習っていたので、動詞の変化に関しては、比較的馴染みやすかったんですが、やっぱり漢字は覚えづらい。敬語も一苦労したし、縦書きのテキストもなかなか読み進めることができませんでした」

後期に入ると、児童発達学の授業で自閉症の子どもたちに接する機会も得た。フィールドワークを通して学問を追求する日々を送る中、プッサディーさんは自分の身体の異変に気づく。

膠原病の発症だ。

「まず最初に足首が痛くなりました。でも、いろいろな病院に行っても何の病気だかわからない。最後にかかったのが東京医科歯科大学で、ここに1ヶ月半、入院しました。カルテにはドイツ語で『変な腫れ』と書いてあったのをよく覚えています」

ドイツ語が理解できるからこそ知った自分の病気。しかも異国の地での発病だ。どれだけ心細く不安だったことだろう。

だが、プッサディーさんはくじけなかった。原因不明の発熱や湿疹、関節の痛みなどの症状に襲われる自己免疫疾患(免疫に異常が見られる疾病)の膠原病に苦しめられながらも、大学での勉強と平行して、タイと日本をつなぐ文化事業にも力を入れた。

写真内の一番左が団伊玖磨先生、右側の女性がプッサディーさん

團伊玖磨作のオペラ「夕鶴」をタイ文化センターのこけら落としで公演するにあたって、タイ語字幕を担当。写植からスライド作成、さらにはスライドを適切なタイミングで表示するディレクションまでこなし、リハーサルにも立ち会い、精力的に動きまわった。

しかし、公演の3日前に症状が悪化し、プッサディーさんは歩くこともできなくなって入院を余儀なくされる。

「3日間だけの入院でしたが、ステロイドの投与で良くなりました。いまも使っていますよ。この病気は、ストレスが原因とされています。それで一つ、思い当たるのがドイツ語の授業ですね。タイにいるときは、私のドイツ語の成績は最優秀だったんですが、日本に行ったら勉強の仕方がまったく違う。タイでは会話中心の勉強だったのに、日本ではヘルマン・ヘッセの『ハンスの思い出』のような小説が題材で、『小説を読んで訳せ』という授業でしたから、全然ついていけない。日本語もまだあまりわからなかったので、日本では落第しました(笑)」

適切な薬と適切な治療を受ければ膠原病でも元気に活動的に動き回ることができる。プッサディーさんはその良い見本だ。

覚えたら即、口に出す。それが語学習得の鉄則

日本とタイの語学学習に対する考え方、価値観の違いにも苦しめられはしたが、1年、2年と経つうちにプッサディーさんの日本語能力は飛躍的な上達を遂げる。4年目からは、もう日本語でのやりとりに困ることはなくなった。

いったいどんな方法で、日本語の習得につとめていたのだろう。

「とにかく語学が好きなので、新しい言葉を聞いたらすぐに覚えて使ってみました。子どもがそうでしょう。耳から学んですぐ口に出す。あれと同じです。日本語の学習に使った物語に出てくるセリフも覚えたら即使っていましたね。『浦島太郎』にこういうシーンがあります。浦島太郎が亀をいじめている子どもたちに『いじめてはダメだよ』と言うと、子どもたちが『構うものか』と言い返すシーン。あれを読んで、実際に『構うものか』と言ってみたの。そうしたら皆に大笑いされました(笑)。でも、語学は自分で勉強だけしていても進歩はしない。笑われてもいいんですよ。自分で使ってみないと語学は絶対、ものにはなりませんね」

TVもプッサディーさんの語学学習の力強い援軍となった。寮にいる間は、一日中TVはつけっぱなしで、耳に日本語が入る環境を整え、未知の単語や表現に出会うと、すぐに辞書を引いては意味を確認。そして、実際に使ってみる。この繰り返しを粘り強く、根気強く、重ねていった。

「TVでよく見ていたのは歌番組やアニメ。『オバケのQ太郎』や『海のトリトン』『ゲゲゲの鬼太郎』、あと『トムとジェリー』も好きでした。アニメは楽しく日本語を覚えられるからいいですね。吹き替え版の洋画も好きだったし、時代劇にも夢中になった。特に好きだったのが、『遠山の金さん捕物帳』。中村梅之助さんが遠山金太郎を演じた初代のシリーズです。最後の方ではニュースも見ていました。ニュース番組って下に字幕が出るでしょう。あれがすごく勉強になるんですよ」

留学2年目から携わったラジオの仕事も、プッサディーさんの日本語能力の向上に大きく貢献した。「ラジオジャパン」(NHKラジオの海外放送)で、9年間にわたって英語の放送台本を日本語とタイ語に翻訳し、自らタイ語で放送。スーパーマルチな活躍を繰り広げたのだ。

「NHKには『発音辞書』というものがあって、あれはずいぶんと役に立ちました。取材も楽しかったですよ。『ある日本人』というコーナーでは、画家や建築家、医者などを毎回クローズアップして、世界に紹介していきました。放送台本を通して学んだことはたくさんあります」

『窓際のトットちゃん』『鉄道員』、活動はますます広範囲に

ラジオの仕事を始めてから9年目。78年3月にプッサディーさんは帰国を決意する。30才を目前にし、一つ区切りをつけたいと考えたからだが、タイに戻ってからもラジオの仕事は継続した。

「日本ではタイ語放送をしていましたが、帰国後は、タイ国営放送局のラジオタイランドが日本語放送を始めたいというので、2年間ニュースや観光案内番組を担当しました。台本は、タイ政府観光庁から取り寄せた資料をもとに作成をして、歌でタイ語を教える番組を作ったり、人気フォークバンドのアリスのインタビュー番組も作りましたよ」

その後新たな転機が訪れる。毎週、土曜日のゴールデンアワーに放映される20分番組「海外ウイークリー」のリポーターの仕事だ。タイでのトピックを日本語で紹介する番組の台本は、当初、日本人のディレクターが手掛けていたが、すぐにプッサディーさんの担当となった。

番組で紹介するに値する話題を見つけては、自分で台本を書き、紹介する。一人でいくつもの役割をマルチにこなすようになったこの頃から、プッサディーさんの活動領域は広範囲に広がっていく。黒柳徹子の自伝「窓際のトットちゃん」、浅田次郎の小説『鉄道員(ぽっぽや)』の翻訳、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の字幕…。 タイ語通訳や翻訳家5名との共同作業で、『日本とタイのクロスカルチャー』も上梓した。5名の内訳は、日本留学経験の長い2人のタイ人とタイで長く仕事をしている日本人3人(うち2人の奥さんはタイ人)。5人すべてが、プッサディーさんと同じように、日本とタイのクロスカルチャーになりうる人材だ。高い通訳・翻訳力を駆使し、タイと日本を結ぶ領域で確かな成果をあげていったプッサディーさんと仲間たち。彼ら彼女たちがもしいなかったならば、日本や日本人に対するタイの人々の心情も大きく違っていたのではないか。そう思えるほど、その存在感は圧倒的だ。

プッサディーさんはいま、先に述べたOJSAT(タイ王国元日本留学生協会)の副会長のほか、日本のパッチワークキルトの仕事も手伝っている。 「といっても、私が手芸をしているわけではないですよ。私は手芸は苦手なの(笑)。日本手芸普及協会が、タイで講師養成講座を開きたいというので、通訳としてそのお手伝いをしています。でも、いまは通訳の仕事はあまり受けていませんね。あとはクロスカルチャーのテーマで講師をしたり、日本企業で働くタイ人のために日本の文化やビジネスマナーをレクチャーしたり。それぐらい」

「それぐらい」といいながら、仕事量としては今でもかなりのボリュームだ。周りが放っておかないプッサディーさんは生涯現役の道を貫くに違いない。

母国語を疎かにしてはいけない

最後に、日本語を勉強しているタイ人にアドバイスをもらった。

「日本語や日本のことを勉強するのはもちろん大事なことですが、もっと大切なのが自分の母国語をしっかりと学ぶこと。通訳というのは、自分の母国語に置き換える仕事です。タイ語が下手だと、先方の意図を100%伝えることはできません」

「タイ語の『ครับ』も正しく発音できないタイ人が最近は増えています。でも、言葉が綺麗でないと、ニュアンスが正しく伝わらないんですね。余分に言葉を並べたりする傾向も問題です。まず基本となるのは自分の母国語。その上で、日本語をしっかりと勉強してほしいと思います」

そして、最後にこう付け加えた。

「英語もやらないとダメですよ。いまは、バイリンガルでは話にならない。言語は、3つも4つもできるようにしないと。がんばってください」

基本に忠実な美しく正確な母国語、背景の文化や価値観をも理解した上で身につけた日本語、さらに英語。3つの言語を流暢に自在に使いこなすプッサディーさんが切り拓いた道からは、たくさんの優秀な通訳や翻訳家が続いている。

現在、日本に留学するタイ人は、昨年よりも10%増えて年間約3000人。新たな世代が支えてくれるであろう「日タイ修好130周年」の2017年が待ち遠しい。

私と日本」とは?

日本語を話し、日本の価値観を身につけたタイ人から見た、日本の姿とは何か?2つの言葉で2つの国を駆け抜けるタイ人の人生に迫る、タイでのビジネスにヒントをくれるドキュメンタリーコンテンツ。
三田村 蕗子の画像
執筆 三田村 蕗子

ビジネス系の雑誌や書籍、Webメディアで活動中のフリーライター。タイをもう一つの拠点として、タイはじめとするASEANの日系企業や起業家への取材も手掛ける。新しい価値を創出するヒト、店、企業の取材が得意技。コロナ禍で絶たれたタイとの接点をどう復元するか模索中。

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