この8年間、自分は何をしてきたのか
2017年10月7日。
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日経ビジネススクール(NBS)アジアが主催し、メディエーターがコーディネートを担当する視察プログラム「NBSビジネスミッション」の最終日。Srichand United Dispensary Co., Ltd.(以下、シーチャン)を訪問した後、僕は大泣きしてしまいました。
もともと涙もろい方ですが、感極まって涙が止まらなくなり、人目もはばからず泣いてしまった経験はそうそうはありません。
僕がこらえきれずに涙を流してしまったその理由を一言で言えば、シーチャンの社長の話を聞いたときに、メディエーターを起業してからの8年間がありありと蘇ってきたからです。自分の歩みを振り返り、そして悔しさにかられました。
この8年間、いったい自分は何をやってきたのか。
どれだけ失敗を重ねてきたのか。
何を成し遂げてきたのか。
手掛けてきた仕事を思い出し、悔しさ、虚しさに胸がえぐられてしまいました。今回は、失敗も含めてメディエーターのこれまでを振り返っていきたいと思います。
便利屋だった2年間
僕は2009年6月5日にメディエーターを設立しました。
会社を作るとき、タイでは占い師にみてもらうのが一般的です。結婚でもそうですが、何月何日の何曜日の何時に実行すべきなのかをアドバイスしてもらいます。
僕はタイで会計コンサルタント会社を運営している友人夫婦にすべて任せ、「この日のこの時間がいいよ」と言われた通りに設立の手続きを取りました。
なにせ、日本からタイに戻ってきたときには、会社の基礎的な知識が不足していて、見積書ってどう書くの? 源泉徴収って何? 領収書ってどうやって発行すればいいんだろう? といった素朴な疑問を持っていたほどです。会社の設立に関してはプロに任せるのが一番だと考えました。
仕事の方は順調に進みました。最初はフリーの通訳からスタートしましたが、やがてコーディネートの仕事も引き受けるようになりました。
しかし、率直に言って、会社を登記してからの2年間の僕は単なる便利屋でした。仕事に困ったことはないけれど、実態としては単なる便利屋。なんでもこなす便利屋として重宝されていたのです。もちろん、それに甘んじていた僕が経営者として未熟だったことは言うまでもありません。
成果報酬の仕事が多かった
タイの製造業を中心とした産業振興を担っている工業省産業振興局(DIP)の仕事を引き受けたときも、お抱えコーディネーターとしてがんばりました。詳細なリサーチを踏まえて、こういうやり方をすれば地域の経済活性化につながります、といった提案をする仕事です。
その後、JICAやJETROの仕事も入るようになり、口コミで仕事は順調に増えていきました。
当時の主な依頼は、合板やチーク材、トラックの部品、鋳物、ネジなどのパーツ類をタイで購入したいという内容です。条件にあう製品をタイで探し、見積もりをしてもらったらスペックが合うかどうかを確認して、売買が無事に成立したら報酬が得られるという契約でした。
要するに成果報酬のお仕事ですね。
しかし、これがなかなかまとまらない(笑)。まとまらなければ報酬は得られません。どれだけタダ働きをしたでしょうか。
日本人イコール良い人ではない
一見、木製にしか見えないけれど実はプラスチック。そんな製品の工場をタイで作りたいという日系企業の依頼に応えて奔走したこともあります。
デッキやべランドでの利用を想定した製品でしたが、タイではあまり需要がないんですね。「成功したら報酬は払うから」という言葉を受けてしゃにむに仕事をしたものの、結局、実を結ぶことはなく、当然のように報酬はゼロ。商材をよく知らずに仕事を引き受けてはダメだというシンプルなビジネスの原則を心に刻みました。
やがて、タイでモノを買って日本で売りたいという依頼は減っていきました。タイの物価上昇が顕著になり、タイの製造コストでは採算が取れなくなってきたからです。それまでは、タイから日本にモノを輸出すれば良い商売になると言われていましたが、それは夢でしかなくなりました。
便利屋として動いていたときいろいろな学びはありました。中でも一番大きかったのが、日本人イコール良い人ではないということ(笑)。大使館時代にそうした経験をしなくて済んだのは、タイ国大使館という看板を背負っていたからでしょう。
看板がなくなると、信頼できない人と遭遇する機会が増えました。騙すとまではいかなくても、人をいいように使うだけで対価をちゃんと払おうとしない。そんな日本人は一人や二人ではありません。相手をしっかりと見極めなければダメだと痛感しました。
もっとも、いまの僕も真贋を見抜く力はまだ足りていない(笑)。まだまだ磨き続ける必要があると感じています。