取手市の知人宅で過ごした中学の夏
僕がはじめて親元を離れ、日本で暮らしたのはまだ中学生のときでした。
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父の友人で齊藤さんという方が取手市でゴルフの打ちっぱなし練習場を経営していました。夏休みの1ヶ月間、僕は斉藤さん宅に居候させてもらったのです。
なぜ、そんな話になったのか。詳しくは僕もいきさつを覚えていないのですが、父も母もいずれは僕を日本に留学させようと相談していたようです。中学のときから日本に馴染んでおけば、留学の良い布石になる。そんな風に考えていたのかもしれません。
斉藤さん宅での暮らしは、楽しかったという記憶しかありません。
彼が経営する練習場で、マットを直したり、ボールを拾って回収したりと、仕事を手伝うのも面白い経験でしたし、斉藤さんやその家族、友人たちとおしゃべりするのも良い経験になりました。
日本語は片言レベル!?
こんな風に書くと、いかにも日本語がペラペラだったように聞こえるかもしれませんね。
でも、事実はまったくの正反対。僕の日本語は片言レベル程度でした。
中学生になってから、毎週土曜日にバンコクの日本語学校に通って日本語の勉強をスタートしてはいました。
しかし、正直なところ授業中は寝てばかり。真面目な生徒ではありませんでした。勉強よりも楽しみだったのは、お昼に伊勢丹やヤオハン(現在は、フォーチュンタウンになっている)で食べていた日本食。とりわけお気に入りだったのが、ちらし寿司です。
あまり勉強には熱が入っていなかったので、日本語能力は低いまま。基本的文法こそ理解していましたが、漢字となるともうお手上げでした。カタカナ、ひらがながなんとか読める程度でしょうか。話す方も決してうまくはありませんでした。
それでも斉藤さん宅での暮らしにそう不自由することもなく、夏の1ヶ月の期間中、僕は日本暮らしを満喫したのです。
日本で洋楽ロックに明け暮れる
高校2年のときにも、僕は斉藤さん宅でひと夏を過ごしました。
このとき、夢中になったのが洋楽のロックです。ガンズ・アンド・ローゼズ、チープ・トリック、スコーピオン…。おかしな話ですが、僕は日本で洋楽ロックに触れ、その魅力のとりこになりました。
CDを買うのが何よりの娯楽でした。タイ人が日本で洋楽ロックに明け暮れる。それが、17才の僕、ガンタトーンの姿です。
やがて、楽しい高校生活が終わりに近づいていったある日。僕は今後の進路について両親と話し合いました。両親と僕との間では、日本へ留学することはもう規定路線になっていましたが、僕には1つ、不安がありました。
日本へ行くことへの抵抗はありません。それはもうまったくのゼロでした。
僕が心配だったのは、日本へ留学することで周囲からずいぶんと遅れをとってしまうのでないか、ということです。
決めた!日本へ留学しよう
日本の大学に入るにしても、まずは日本語をしっかりと学ばなければなりません。
それには日本語学校に入り、日本語能力を上げる必要がありますが、時間がどうしてもかかります。
タイでは飛び級が珍しくありません。僕と同じ年齢でもう大学に入り、着々と将来に向かって歩を進めている友人もいました。そんなタイの社会で、日本に行き、日本語学校で日本語を学び、それから大学に入るという選択が本当にいいことなのか。時間的なロスがその後の僕の人生に影響を与えることはないのか。
あれこれ考え、心配もし、両親とも相談をした結果、僕が出した結論はこうです。
日本へ行こう。
まずは日本語をマスターしよう。
そして必ず良い大学に入ろう。
固く心を決めた僕は3月に母と一緒に日本に行き、4月からの入学続きのため東京日本語学校に出向きました。しかし、ここでとんでもない事実が発覚するのです。
日本語学校の申込時に発覚した衝撃の事実
今でもあのときのことは忘れられません。
学校で入学申し込みをしようとしたとき、担当者から僕たちはこう告げられました。
「4月に入学を希望される場合、その半年前、つまり前年の10月にお申込みをいただかないとVISAが出せません」
このときの衝撃はいまでもよく覚えています(笑)。僕たちは予備知識を持たず、直前に申し込みをしさえすれば簡単にVISAもおりて入学できると考えていました。自分で言うのもなんですが、なんというのんきな母であり僕なのでしょう。
ルールがそう決まっている以上、仕方がありません。考えあぐねた末に僕たちは次のような結論を出しました。
4月~6月までの3ヶ月間は観光ビザで滞在し、7月~9月はタイに戻って自宅学習を続け、10月からの授業についてはいま申込みをしてVISAを申請しておく。
この場合、途中3ヶ月間、学校からは離れてしまいますが、それしか手がありません。とにかく、この方法で4月から3ヶ月間、僕は日本語を学校で学び始めました。
僕が入れられたのは一番下のクラス。日本語の力を考えれば当然ですが、僕は心に誓いました。
7月~9月にタイに戻ったら猛勉強して、10月からは必ずこのクラスよりもっと上のクラスに行ってみせる。
このときから、呆れるほどシビアでハードな日本語学習生活がスタートしたのです。