個人通訳として働き始めた
2008年10月。僕は10年ぶりにタイに戻りました。
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日本とタイをつなぐ仕事をしたい。当時からその気持ちは強くありました。社会貢献をするためにお金を稼ごう。そのためには雇われではだめだ。自分で事業を興すしかないともずっと考えていました。
しかし、そのときの僕にできることといえば、10年間の日本での生活で蓄積したスキルやノウハウを活かして、日本語タイ語の通訳として働くことぐらいです。まずはできることから始めようと、フリーランスの通訳として活動をスタートしました。
幸い、仕事には困らず、口コミでさまざまな仕事が飛び込んできました。見積書の出し方も知らず、請求書の作り方もろくにわからず、源泉徴収についての知識がない中で仕事を始め、忙しく走り続けて8ヶ月ほどたった2009年6月。僕はついに念願だった自分の会社を立ち上げました。
自分の志を表現する社名を模索して
自分の会社といっても、メンバーは僕一人。
でも、ついに起業にこぎつけたのです。両親にも相談しましたが、特に反対はなく応援をしてくれました。僕の気持ちをよくわかってくれたのだと思います。
困ったのが社名をどうするか、という問題です。辞書を引きながら僕はさんざん考えました。日本とタイをつなぐ事業を展開していく会社にはどんなネーミングがふさわしいんだろう。
当時、仕事として実際に引き受けていたのは、主に通訳や翻訳でしたが、そのほかにも、コーディネーターやナビゲーターといった仕事も受けていました。それらの仕事をすべて網羅し、日本とタイをつなぐという僕の志をうまく表せる言葉とは何だろう。きっと何かうまい言葉があるはずだ。
そして、ある言葉に出会ったのです。
仕事の幅が広がってきた
英語で仲介人や仲裁人のことはメディエーターといいます。メディエート(Mediate)には、調停する、仲介する、和解させる、取り次ぐという意味があり、メディエーターはその名詞形です。
これだ!
メディエーターの言葉を辞書で見たときに、もう迷いはなくなりました。晴れてメディエーターが誕生した瞬間です。
起業前は個人通訳として仕事をしていたので、会社を作ってからも当初は通訳の仕事がメインでしたが、徐々にその中身は変わっていきました。JICAのプロジェクトコーディネーター、JETROや福岡県庁の仕事など、通訳や翻訳の枠におさまらない仕事が増えてきたのです。
お客さんの依頼を受けて、そのプロジェクトを成功に導くためのタイ側の船頭といえばいいでしょうか。タイで生まれ育ち、日本で10年間を過ごした僕、そして同じようなキャリアを持つメンバーだからこそ可能な事業だと自負しています。
もちろん、通訳の仕事を軽視しているわけではありません。日本とタイをつなぐという意味では通訳は重要な役回りです。
2011年3月11日に東日本大震災が起きた後に、僕は通訳の仕事で駆けずり回りました。原発事故後に頻繁に開催された説明会に通訳として指名されたからですが、それも「理系の通訳ならガンタトーン」という評判が確立していたおかげです。実績を重ねることの意味を実感しました。
目標まで道半ば、でも決して諦めない
仕事を通して、僕が何よりも重視しているのは、お客さんが掲げているゴールまで手を携えていっしょに走るということです。ゴールまで走り抜くということです。
ゴールを共有しコミットしたい。それが、僕たちのやりがいであり、誇りです。
お客さんには「タイでこういうことを伝えたい」「タイでこんなことを実現したい」という目標があり、夢があり、ゴールがあります。そのために何が必要なのか、何ができるのか、何をすればいいのかを明確にして、1つずつ実践していくこと。それがメディエーターの役割です。
しかし、20才のときに花売りの女の子を見て、胸に温めた志についていえば、まだ道半ば。身近なところでは、オフィスと自宅で働いてくれてるメイドさんのお子さんの「先生になりたい」という希望がかなうように、ずっと学費を負担していますが、目標とする社会貢献には至っていません。
でも僕は諦めません。
日本とタイのプラットフォームとなり、もっと社会に恩返しをしたい。タイの階級社会を僕がなくせるわけではないけれど、あの少女の姿を胸に刻み、自分の環境に感謝を忘れず、よりいっそう、もっと深くもっと強く社会に貢献していきます。