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2016.8.2

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次は君たちの番だ。その手伝いならいくらでもしよう。感謝と情熱、行動の人。(ソムチャイさん)「私と日本」vol.17

アクセス数: 2705

次は君たちの番だ。その手伝いならいくらでもしよう
感謝と情熱、行動の人、ソムチャイ・チャカタカンさん

 ラヨーン県の農家に生まれながら、日本への留学を経て、農学博士となり、ついにはタマサート大学副学長に昇りつめたーー。そんな絵に描いたような立志伝中の人物が、ソムチャイ・チャカタカンさんだ。

 サクセス・ストーリーを体現した人物の中には、「自分の努力(だけ)で道を切り開いた」と豪語し、厳しい環境から抜け出せない他者を努力が足りないと切り捨てる人物が珍しくないが、ソムチャイさんの視点と行動はその対極だ。周囲への感謝の気持ちを忘れず、自分と同じような環境の人々、後進の世代に優しく温かい眼差しを向け、手を差し伸べる。感謝と情熱、行動の人、ソムチャイさんの軌跡を追った。

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自分にもできるかもしれない

「君ならできる」

 日本への留学などまったく頭になかった高校生の心を変えたのは、校長先生のこの一言だった。

「当時、私はチョンブリ農業高専高等学校の5年生でした。ある日、校長先生から『日本に留学できる奨学金が出ているが、受けてみないか』と誘われたんです。聞いて、大笑いしました。だって、試験は英語です。でも私はずっと英語は不可ばかり。英語で自分の名前を書くこともできなかった(笑)。先生は二日酔いか頭がおかしいんじゃないかと思いました。でも、校長先生が続けてこう言ってくれたんですね。『君ならできる』。この一言で気持ちが変わった。やってみようと考えました」

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日本政府(文部省)奨学金留学生申請書

 ソムチャイさんは貧しい農家の生まれだ。中学2年生のときに父親をガンで亡くし、農作業を手伝いながら農業高校に進学した彼に、留学という選択肢を考える余裕も発想もまったくなかった。

 しかし、校長先生はそうではなかったようだ。人を助ける活動に熱心で、文房具にもこと欠く貧しい子どもたちにボールペンや消しゴムを送ったり、植林のボランティア活動にも熱心に取り組み、選挙で生徒会長に選ばれ、未来農業後継者協会(FFT)の会長も勤める人望厚い高校生にもっとチャンスを提供したい、未来を切り開く支援がしたい。校長先生はそんな思いから声をかけたのではないか。

 相手を信頼し、未来を示唆する大人の言葉の力は強い。「自分にもできるかもしれない」と心が動いたソムチャイさんは行動を開始。奨学金を出す日本の文部省(当時)の事務所があるバンコクまで願書を取りに出向き、ここから独自の試験対策を開始した。

 試験と言っても面接のみ。英語での面接だ。しかし、ソムチャイさんは英語はできない。突破不可能に見えたハードルをどう乗り越えたのか。

「なぜ奨学金に応募し、日本に留学したいのかという自己紹介文をまずタイ語で書いて、英語ネイティブの友人に英訳してもらいました。日本の農業を学んでタイに伝えたいという内容でね。それを丸暗記したんです。また、私は学生服ではなく、FFTの会員のみが着用を許される制服で面接に臨むことを決めていたので、絶対、制服について質問されるだろうと予想しました。皆と服が違いますからね。そこで、あらかじめその答えも準備しました。これが大当たり。読みが的中して、『君の英語は素晴らしい』と言われました(笑)」

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死に物狂いで日本語をものにする

 晴れて試験に合格し、日本に留学したのは1984年。ソムチャイさんは、文化学園で日本語を学び始めたが、この時点での日本語のスキルはゼロ。日本語習得の道のりは壮絶を極めた。

「国費で留学していますからね、絶対に卒業しないといけない。不名誉なことはできないと、もう死に物狂いでした。人が寝ているときに勉強し、お昼の時間も夕食どきにも単語を10個覚えました。授業の内容はテープに録音して繰り返し聞きましたよ」

 周囲は、ソムチャイさんが時間を惜しみ、あまりにも苛酷に勉強漬けの生活を送っていたことから、「このままでは心配。彼は帰国させたほうがいいのではないか」との声も出ていたという。どれほどの勉強ぶりだったかがうかがえるエピソードだ。

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日本語を猛勉強していた際のノート

 6ヶ月間、文化学園で学んだ後、ソムチャイさんは東京農業大学の短期大学に入学を果たす。130人の同級生中、外国人は彼を含んでたったの2人。日本人に囲まれて授業を受ける彼を待ち構えていたのが日本語の壁だ。

 入学前に日本語を猛勉強したとはいえ、期間にすればわずか半年。育種学、植物生理・生態学といった専門の授業から、哲学、法学といった教養の授業まで、日本語オンリーの授業を理解できるレベルには到底達していなかった。

 だが、ここで終わらないのがソムチャイさんだ。

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学生時代、日本の新聞を読むソムチャイさん

「どの授業も一番の前の席に座って、内容はすべてテープに録音しました。友人にノートを貸してもらい、それをアパートで写して、さらに友人にふりがなをふってもらったんです。そのノートを持ち帰って、辞書を引く。といってもいまのような日タイの辞書はない時代ですからね。日本語をまず英語に訳してから、タイ語を確認しました。ものすごい手間でしたよ。A4のノート1枚で何時間もかかった。そのせいか、私は辞書をひくのは早い。自信があります(笑)」

 勉強の成果はその語彙からも明らかだ。日本語の常用漢字の数は約2000とされている。しかし、彼の語彙は約4000字。猛勉強の末に、そんじょそこらの日本人では太刀打ちできないボキャブラリーを手に入れたソムチャイさんだが、「周囲にも恵まれた」と振り返る。

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東京農業大学でお世話になった先生方と富士山を背景に

「文部省の国費留学生という立場で留学し、短期大学で2年間学びました。でも、大学編入を希望した私には奨学金がもう出ない。困っていたら、担当教官の植松先生が、東京農大OBの故・西川哲三郎先生が立ち上げた西川畜産奨学財団の奨学金を探してくれたんです。本当にありがたかったですね」

 奨学金を得て大学に編入を果たし、熱帯植物のアマランサスに関する研究を重ねたソムチャイさんは、卒業論文で優秀賞を受賞した。東京農業大学設立95年で留学生が優秀賞を獲得したのはこれが初。ソムチャイさんは「伝説の人」である。

恩師から叱られ、励まされた日々

 その後の大学院時代について触れる前に、時計の針を少し戻して、ソムチャイさんの人生の重要な節目について語ることにしたい。

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1991年富士山登頂

 ソムチャイさんは大学3年のときに結婚。タイ人の奥様を養いながら大学生活を送ることとなる。

「タイにいるときに婚約をしていまして、これ以上待たせることはできないので、日本に連れて来ました(笑)。ただ、回りには内緒にしていたんですね。というのも、自分は留学生として日本に来ていますから、もし結婚がバレたらどうなるかわからないと思ったからです」

 結婚した事実を隠し、お風呂もない4畳半のアパートに暮らしながら、バイトで生活費を稼ぐ日々が続いた。しかし、人の口に戸は立てられない。

「タイ人の友人から聞いたらしく、ある日、西山先生から呼び出されました。怯えつつ先生のところに行ったら、『君はそれでも男なのか』とまず一喝された。『男なのだから、そんな無責任なことをするな』というわけです。もうひたすら恐縮していたら、今度は『おめでとう』とお祝いの言葉をかけられた(笑)。厳しいけれど優しい先生なんですね。その後は、お祝いのパーティーまで開いていただきまして、お寿司まで出してもらいました。ただ、あいにく私はお寿司が食べられないんですけどね(笑)。その後、西山先生は生活費の足しにしなさいとポケットから封筒を出して、私に渡してくれました。中を見ると、7万円入っていた。それも1回ではありません。在学中、ずっと金銭的な援助をしていただいた。お金が入っていた封筒は絶対に捨てられません。いまも大事に取ってあります」

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恩師の西山喜一先生とアマランサス畑にて

 ソムチャイさんに手を差し伸べたのは西山先生だけではない。西川畜産奨学財団のファウンダーであり、「君の役割は日本で学び、タイに戻って、タイの人をお腹いっぱいにしてあげることだ」と声をかけ、ソムチャイさんを励まし続けていた西川哲三郎先生も恩師の一人だ。

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東京農業大学3、4年時に奨学金の援助をしていただいた恩師の西川哲三郎先生(前列中央)

「入院した西川先生の具合が良くないと聞き、これが最後になるかもしれないと思い切って妻を連れてお見舞いに行ったら、顔を見るなり『帰れ!』と怒鳴られた。でもその後すぐに『戻ってこい!』と言うんですよ。そして私に困っているだろうからと10万円手渡してくれました。そのお金で妻も文化学園に行き、日本語を学ぶことができた。西川先生、西山先生、それから植松先生、平野先生。こうした先生方がいらっしゃらなかったら、いまの私はいません」

暗闇のなかにいる子どもたちにマッチを渡したい

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西山喜一先生とソムチャイさんの奥様ウイライポンさんと東京農業大学国際農業開発学科卒業式

 ソムチャイさんが大学院時代に情熱を注いだのは勉学ばかりではない。大学のタイ留学生協会の会長をつとめ、1991年には、日本で初となるソンクラーン(タイ伝統の水かけ祭り)を東京都内のお寺で開催。4000人以上が参加した。貧しい子どもたちのための募金活動を行う「ナムジャイの会(น้ำใจ=ナムジャイ=思いやり)」も設立し、会長として精力的に動きまわった。

 博士課程に進んでからも、全国在日タイ留学生協会の会長に就任。日本国外国人留学連合会の運営委員に就任するなど、1994年にタイに帰国するまで熱心な活動を繰り広げている。

 博士となり、タイに戻ったソムチャイさんはタマサート大学で教鞭をとる道を選んだ。

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「企業で働く選択肢もありました。その方が給料はずっと高いです。でも、私は教師になりたかった。私の人生が先生に恵まれていたからです。だから今度は、自分が先生になる番だと思いました。自分が受けた恩を10倍以上に返して、たくさんの博士を送り出したいと考えました」

 今年までで、ソムチャイさんのもとで博士号を取得した学生の数は17人。夢は着実に形になっている。

 過去にはタマサート大学付東アジア研究所で所長に就任し、昨年度までは総務担当副学長をつとめ、タイ国副文部大臣顧問という顔も持つソムチャイさんは、貧しい環境で育ち、選択肢が限定されがちな若い世代への支援にも情熱を注ぐ。

「周囲が真っ暗だと、どう進んでいいかわかりませんよね。私はそこにマッチをつけてあげたいと思っています。火のついたマッチを子どもたちに渡せば、その火から得られる明かりを頼りに自分の道を進んでいくことができるでしょう。その火は大きな松明になるかもしれない。マッチの火が消えてしまう子もいるでしょうが、大事なのはマッチを渡すということ。私はこれを『マッチ理論』と呼んでいます」

 明かりが見えず、未来が見えない。未来を選びようがない。それはかつてのソムチャイさんだ。高校時代の校長先生から「君ならできる」という言葉とともに火のついたマッチを渡され、日本への留学という進路を暗闇の中で見出したソムチャイさんは、その細い火が消えることのないよう慎重にろうそくに移し、自らの未来を切り拓いて、火を大きく確かな松明へと育てていった。

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日本語教育を行う『Hanamaru Japanese Language School』の皆さん

 自分もできた。次は君たちの番だ。その手伝いならいくらでもしようーー。そんなソムチャイさんの「マッチ理論」実践の場の一つが、日本語学校を運営する柳原大作さんが進めているプロジェクトの支援だ。タマサート大学ランシット校の近くではなまる日本語学校を運営する柳原さんは、同校で日本語を学ぶ農家出身の生徒が日本で農業実習を受けられるプロジェクトを推進している。ソムチャイさんの言う「マッチ」とは、日本語習得と日本での農業実習なのである。

 ソムチャイさんが、“タイ日友好”という派遣会社を設立し、農業高専を卒業した後輩たちが日本で技能実習生として学ぶことのできる事業を推し進めているのは、彼らが帰国した後、タイの農業発展に貢献してほしいと考えるからだ。

 さらに、彼には大きな夢がある。

「実習生の経験を通じて、日タイの国際交流大使になってもらいたい」  ソムチャイさん、そして志を同じくする柳原さんの思い、情熱、希望はきっと生徒たちにも受け継がれているはずだ。

 ソムチャイさんの大学の部屋には、恩師の写真が大きく掲げてあった。留学時代を物語るノート、手紙、封筒も大切に保管してあった。巡りあった人々、自らが置かれた環境に感謝の念を持ち、その思いを情熱に変え、タイの農業を支える次世代の育成という形で恩返しを続けるソムチャイさん。彼のもとで学ぶ子どもたち、接点のある子どもたちは幸福だ。

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「私と日本」とは?

日本語を話し、日本の価値観を身につけたタイ人から見た、日本の姿とは何か?2つの言葉で2つの国を駆け抜けるタイ人の人生に迫る、タイでのビジネスにヒントをくれるドキュメンタリーコンテンツ。(関連記事はこちら)
三田村 蕗子(ライター):日本のビジネス誌、流通専門誌、ビジネス書を中心に活動するフリーライター。2014年11月、拠点をバンコクに移し日本とタイを行き来する。鋭い視点で、活気づくタイとASEANのビジネス事情を取材している。