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2016.2.18

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愛と絆を貫いた40年。在京タイ王国大使館でタイと日本の架け橋となる。(ソンブーンさん)「私と日本」vol.15

アクセス数: 2478

タイと日本の架け橋となって大使館を根底から支えてきた
ソンブーン・キッティサタヤワッさん

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1976年3月末。ひとりのタイ人留学生が日本の地に降り立った。彼の名前は、ソンブーン・キッティサタヤワッさん。35年間、在京タイ王国大使館に勤務し、タイと日本の架け橋となって大使館を根底から支えてきた人物だ。

国を超え、距離を超えた純愛

日本に留学後、日本の企業に就職するタイ人留学生は多いが、大半は数年を経て帰国している。だが、ソンブーンさんは日本に残る道を選び、日本で働き続けた。その理由はただ一つ。一人の日本人女性の存在だ。現在のソンブーンさんの奥様である。

お二人の出会いは、ソンブーンさんの大学時代に遡る。

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「技術的にも経営的にもアジアのリーダーである日本に学びたい。そう考えて、日本政府の国費留学生として来日し、1年間、東京外国語大学の付属日本語学校で日本語の勉強をした後、電気通信大学に進学しました。大学時代に出会ったのが、当時、短大に通っていた家内です。彼女は20才でした」

つきあってまもなく、二人は結婚を考えるようになったが、奥様の実家からは猛反対されたという。無理もない。今から40年も前の日本だ。しかも、奥様の実家は岩手県の大船渡市。地元では、タイ人はもちろん、外国人との結婚自体が極めて稀だったに違いない。

だが、ソンブーンさんは諦めなかった。「絶対に認めない」「何が何でも認められない」。奥様のご両親に強硬に反対されながらも、短大卒業後、実家に戻った奥様との遠距離恋愛を貫き、了承を得ようと説得を試みた。

大船渡は東北新幹線が開通しているいまでも、日帰りで行くには困難な場所だ。新幹線がない時代での遠距離恋愛はどれだけハードでしんどいものだったのだろう。困難な状況を乗り越え、遠距離恋愛が見事結実したのも、二人の強い結びつきがあればこそ。国境を超え、距離を超え、ソンブーンさんと奥様は愛を貫いたのである。

結婚を認めてもらうためにはどんなことでもする、と決意したソンブーンさんが選んだ就職先が、在京タイ王国大使館勤務だった。「これなら娘を任せても大丈夫」と奥様の両親にも安心してもらえると考えたからだ。

大使館勤務を決めたことで、お二人の結婚はご両親に認めてもらえたんですか?そう尋ねると、ソンブーンさんは苦笑しながらこう言った。

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「いやあ、なかなか難しかったですね。本当の意味で認めてもらったのは、結婚して子どもができてから、かな」

愛を貫くために日本に残り、仕事を選び、一途に努力したソンブーンさん。きっと奥様のご両親のかたくなだった心もその前にあらかた雪融けしていたように思う。孫の誕生は、意思表示を後押しする一つのきっかけだったのではないだろうか。

OJTで病院・入管・警察の専門用語もマスター

ソンブーンさんが働き始めた当時の在京タイ王国大使館は、まだスタッフの数も10人未満と少なく(現在は30名近い)、それだけに多種多様な仕事に日々、忙殺されたという。

「儀典や総務の仕事もやれば、通訳もやりましたし、領事の仕事もやりました。経済や政治の分析も手掛けたし、要は何でもやりましたね(笑)。日本語も、大使館で仕事をしながら覚えていったようなものです。学生時代は理系でしたから、畑違いの分野も新聞を読んで必死に覚えました。病院や入管、警察などの専門用語も仕事を通して学習したんですよ」

OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)の効果は大きい。大学進学の前に1年間、日本語を勉強するために通った高校では漢字の習得に手こずったソンブーンさんだったが、社会人となってからはみるみる日本語能力が向上していった。

「ただ、方言には苦労しましたね。仕事でいろいろな地方に行きましたが、方言が出てくると戸惑ってしまいます。聞き返せない場面もあるので、内心、つらいですよ。実は、妻の実家の方言はいまでもわからない部分がありまして(笑)」

それは、ほとんどの日本人も同様だ。その地域出身でなければ、東北や九州の強いなまりには手を焼いてしまう。だが、空気を読みながらあるときにはスルーし、あるときには文脈からおおかたの内容を理解しようとする。ソンブーンさんの日本語はもはやそのレベルに達している。

タイフェスティバル誕生のきっかけは米不足騒動だった

大使館スタッフの数が増えたとはいえ、ソンブーンさんの仕事はいまも多岐にわたる。タイと日本の関係は深く密だ。多いときには、1年に5~6人、VIPが来日する。2015年2月に初来日したプラユット首相は、3月にも国連防災世界会議出席のため再来日し、さらに7月、日本・メコン地域諸国首脳会議に出席するため三度目の来日を果たした。

VIP来日のたびにソンブーンさんはおおわらわだ。車を登録し、IDカードを発行し、送迎の準備を整え、雑務に追われる。その合間にこなす仕事の量は膨大だ。大使館の建物の改修工事や建て替えなどに携わってきたのがソンブーンさんにほかならない。

加えて、在京タイ王国大使館は主催するイベントの数も多い。代表格が、毎年5月に代々木公園で開催されているタイフェスティバルだ。出店者の募集、ブースの準備、ステージや来日ゲストの手配。ソンブーンさんを始めとする大使館スタッフたちの活躍なくして、タイフェスティバルは成立しない。

聞けば、このイベントが始まったきっかけのひとつは、22年前に起きた米不足騒動にあったという。

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「記録的な冷夏で日本は米不足となり、タイから米を緊急輸入しました。しかし、タイ米への理解がまだ浅く、『臭い』とか『美味しくない』などさんざんな評判だったんですね。そこで、大使館としてはタイ米に関する正しい認識を持ってもらおうとイベントを大使館内で開きました。最初に開催したのがタイヌードルフェスティバル。タイ米でできているクイッティアオや、タイ米で作られている沖縄の泡盛を紹介することで、タイ米の良さを知ってもらい、タイ料理にも親しんでもらおうと考えた。それが2000年からタイフードフェスティバルになり、2005年からはタイ全般のカルチャーを紹介するタイフェスティバルになったんですよ」

いまや40万人を集客する大イベントに

今でこそ大盛況のタイフェスティバルだが、2000年に開催された第1回タイフードフェスティバルでは、50店のブースを用意したものの、参加者を集めるのは大変だった。タイだけに絞ったお祭りでどれだけ集客できるかはわからないと、在京のタイ料理店の多くは参加に及び腰だったのだ。

しかし、翌年には状況が一変。70店もの募集枠があっという間にいっぱいになる。

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「2000年に出店したお店がどこも大変な売り上げを記録しました。土日に店を開けておくより、タイフードフェスティバルに出た方がよほど儲かるという評判が広がったようです(笑)。だから、我も我もと翌年には殺到したんですね」

現在のタイフェスティバルの人気については、もう言うまでもないだろう。土日の2日間の来場者はのべ40万人。開演前から行列が続き、出店する店の前はいつも長蛇の列ができている。代々木公園で開かれるイベントの中では最大の集客数だ。

実は、会場を代々木公園に設定した課程のなかでソンブーンさんのアイデアも大きく取り入れられた。

「広い会場を探し求めて、3つに絞り込みました。代々木公園と日比谷公園と品川海浜公園の3つです。しかし、日比谷公園は規則で火が使えませんし、品川海浜公園ではちょっと風が強すぎる。そこで、代々木公園に決めたわけです」

代々木公園の開放的な空気は、タイやタイ料理によく似合う。そして、代々木公園を舞台に高い人気を獲得しているタイフェスティバルは、その後、大阪や名古屋など全国6ヶ所に広がっていった。と同時に、ベトナムやインドなど、在京の各国大使館が取材する国別フェスティバルに先鞭をつけた。タイフェスティバルが日本人に与えた影響は少なくない。

タイ人救出に追われたあの日

35年にわたる大使館勤務で思い出深い出来事をもし挙げていただくとすれば、何ですか?そんな質問に、ソンブーンさんはすかさず「東日本大震災」を挙げた。

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「3月11日のあの日、私は歩いて家に帰り、家族の無事を確認できましたが、それからが大変でした。東北在住のたくさんのタイ人を帰国させなくてはいけなかったからです。通信システムがダウンしている中、関係者に連絡を取り、警察から特別通行証をもらって大型バスを用意し、東北に向かいました」

現地でタイ人をピックアップして終わり、ではない。タイ人を連れて横田の飛行場に向かい、そこからタイの空軍の飛行機に乗せなければならない。その一方で、大船渡の奥様の実家も気がかりだった。

「バスで仙台に向かったとき、大船渡まで行けるものなら行きたかった。でも、道が閉ざされて行く方法がなかったんですね。結局、大船渡の家族の安否はずっとわからず、無事を確認できたのは2週間後。避難所からようやく連絡が入り、心からほっとしました。不安に包まれている中で、タイ人の救助活動に専念しなければならなかったあのときは本当につらかった…」

震災後、タイから日本に届いた大量の支援物資を必用な場所に届ける業務に奔走したソンブーンさん。その時、痛感した「タイと日本との強い結びつき」を、その後、さらに深く感じることとなる。

「2011年10月、タイは大洪水に見舞われました。このとき、どれだけ日本に助けられたことか。タイと日本は互いに助け合いながら、絆を強めていると思います」

日タイ交流を黒子として支えてきた日々

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写真は2015年12月5日タイの父の日に葛西臨海公園で行われた自転車イベント

タイと日本が正式に国交を開始したのは1887年9月27日。いまから約130年も前のことだ。が、タイ王国研究を専門としていた歴史学者の石井米雄さんの著書「日・タイ交流600年史」にもあるように、日本とタイの交流は600年前にさかのぼるとされている。

同じアジアの国というだけで、決して距離的に近いわけではない2つの国が、なぜ昔から交流があったのか。どうして、こうも深い関係があるのだろう。

「タイと日本にはいろいろな共通点があると思います。一つは、お互いにアジアの中では強国であり、政治的にも安定していたこと。タイは他国の植民地になったことがなく、独立を保ってきた。日本は戦争には負けましたが、植民地化されたわけではないですよね。誇りがあると思います」

「同じ仏教国であること、それから、タイ王室と日本の皇室との親密な関係も挙げられます。天皇陛下が即位して最初に訪れた国がタイでした。プミポン国王の即位60周年記念式の際にもタイを訪問されています。この結びつきは大きいですね」

2015年に日本を訪れたタイ人の数は、前年比21.2%増の79万6700人。タイと日本の関係は、訪日タイ人観光客の激増でさらに強まっているように見える。

「ええ。観光的にも、そしてもちろん経済面でも本当に友好国ですよ。良い流れがずっと続いていると思います」

その流れを後押ししてきた一人がソンブーンさんだ。日本人女性を愛し、家庭を築き、子どもをもうけ、40年にわたって日タイ交流を黒子として活躍してきた。

そのソンブーンさんも現在59才。タイでは定年は60才と決まっているため、大使館勤務を定年退職する日も来年に迫っている。

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「64才まで延長できますが、さてどうしようかな。年のせいか、最近寒さに弱くなって(笑)、タイに戻りたい気持ちもありますが、家内がなんというか」

そう笑うソンブーンさんの直近の願望は、タイフェスティバルで提供されている料理の値段を500円から当初の200円に下げること。

「ただ、お店がうんというかどうかはわからない。ワンコインだと商売がしやすいですからね。でも、200円だとお客さんは喜ぶと思うんですよ。家族で来ても思う存分、食べられるじゃないですか」

身近なところから日本人にタイに興味を持ってもらいたい、タイのことを知ってもらいたい。それが両国の関係を深める最善の策–。ソンブーンさんの中心にあるのはいつもその発想だ。たとえ日本に残ろうと、あるいはタイに戻ろうと、どんな道を選ぼうと、これからもずっと、日タイ友好の橋渡しをしてくれる。私はそう確信する。

「私と日本」とは?

日本語を話し、日本の価値観を身につけたタイ人から見た、日本の姿とは何か?2つの言葉で2つの国を駆け抜けるタイ人の人生に迫る、タイでのビジネスにヒントをくれるドキュメンタリーコンテンツ。(関連記事はこちら)
三田村 蕗子(ライター):日本のビジネス誌、流通専門誌、ビジネス書を中心に活動するフリーライター。2014年11月、拠点をバンコクに移し日本とタイを行き来する。鋭い視点で、活気づくタイとASEANのビジネス事情を取材している。
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